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 野田城
 
 現状は林の状態ですが、中に入り見てみると素人のみのやんでも凄い城跡や〜ァと 解ります、でっかい空堀もあり、
 
 井戸跡も確り解り城好きの人はお薦めの城と思います本丸跡には立派な碑もありまた本丸から二の丸かけて中央に土橋もあり。
 
 石垣こそ 有りませんが空堀が深く見応えは充分です。
 
 略史
 
 永正2
年(1505)   三河の守護代として野田に長く居た富永直郷の後任として
 
 田峯管沼氏、定忠の三男、定則がこの地に入った。これが野田管沼氏の
 
 始まりである。二代目の定村の頃作手の奥平、田峯、長篠の管沼氏が
 
 今川方から織田方に寝返ったため、今川方の定村は奥平貞勝を攻め
 
 勝利するもの定村は戦死。子の定盈が城主となる
 
 永禄3年(1560)   桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、松平氏の属した。
 
 永禄4年(1561)   勢力回復を狙う今川方は氏真が吉田城代、大原資良を将として、野田城を攻めた、定盈は勝ち目
 
 が無いと見て、野田城を開城し、八名西郷氏に身を寄せた。翌年西郷氏の協力で野田城を奪回
 
 元亀2年(1571)   三河に進出して来た武田信玄が各地の城砦を落として野田城に迫ったが定盈は戦わずに
 
 西郷氏に身を寄せた。信玄が甲斐に戻ると、定盈も野田城に戻り城を大幅に強固な物に改修した
 
 天正元年(1573)  上洛を狙う武田信玄が再び三河に進出し、定盈の野田城を包囲した。城兵約500人武田方
 
 2万5千で、しかも周囲の管沼、奥平は武田方に属し、家康も吉田城に退いて孤立無援であった。
 
 篭城に対して信玄は水を絶つ戦略を取り、一ヶ月耐え抜いた後開城した。
 
 
 開城させた信玄は病気となり甲斐に戻る途中に武田信玄 死亡!
 
 
 ☆ 2011年の城廻は豊田市から始めました。野田城も二度目ですが、現在は城跡内の整備をされている様子で以前に比べ
 
 (四年前) 少し明るく感じ又歩き易くなっていました。
 
 
 
 
 
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