略史
永禄八年(1565) 逸見昌経が築城したと言われている。
昌経は西若狭で水軍を中心に勢力を誇っていた。
若狭守護、後瀬山城主武田元明をも凌ぐほどで、
そして織田信長の被官として各地を転戦していたが、
昌経の死後は改易となりその後は溝口秀勝、山内一豊、木下利房と続いたが、
木下利房が関ヶ原合戦で西軍に属した為転封となった。
戦後若狭国の領主となった京極高次は小浜城主となり、
重臣の佐々義勝を高浜城代とした。
寛永十一年(1634) 酒井忠勝が城主になった時期に高浜城は廃城となった。
この高浜の浜辺の風景はバッグンである。明鏡洞は鏡の様に美しいからこの名が付いたようです。
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