城は見るだけ…歩くだけ! (日本の城郭)


     

 

    大垣城

    大垣市文化事業団ホームページ
 

              
                     続日本100名城 
大垣城図 


 城跡の地図


                                                                                       

 大垣城      大垣城櫓台 
  大垣城鉄門跡    


   

                               大垣城門                                                                              
 


2008/9/13  再訪城 

大垣城は天文4年宮川安定が城郭を築き、永禄4年には大垣城主氏家ト全が城郭の建築工事をほどこしました。天守の造営は慶長元年に行なわれ、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階総塗りごめ様式で歴史の上でも貴重なお城でした。昭和11年には国宝に指定されましたが昭和20年7月29日の戦災で惜しくも焼失し、昭和34年4月、昔のままに再建されました。
昭和60年4月、戸田公入城350年を記念して隅櫓や土塀の
一部が修景整備されました。お城のパンフレットより

      岐阜県大垣市郭町二丁目五二番地   

   三年程前に一度来ましたが、その時は、お〜大垣城かの程度の記憶しか無く、
                                
    今回再訪城は新たな気分で見学致しました。



大垣城


垣城 

   岐阜県大垣市郭町  2006/1/2   訪城  



             大垣城は往時のそのままの姿で昭和34年に再建され他に西門、内柳口門、隅櫓等が復元された。本丸跡、二の丸跡が

     大垣公園として整備されています。友から大垣城行くなら石垣の特徴を見て来いと言われ、早速石垣へなるほど石垣は自然石を
 
積んでいるから隙間が多く笑い口のように見えるところから笑い積み呼ばれている。その気で見て見ると何となく笑って要るように

見えてくるのが不思議…

             天守の内部は資料館となっています。天守の最上階からは大垣の町並みが一望できます。

  少しだけ歴史を…                               

       天正十八年(1590)  秀吉が天下を統一するまでに、氏家氏、池田氏、羽柴秀勝などの八氏が交代していた。          

       慶長元年(1596)   城主となった伊藤祐盛が秀吉の命により、天守を築いた。                            

       慶長五年(1600)   関ヶ原合戦では大垣城は石田三成が率いる西軍の拠点となり(東軍は清洲城)東軍の福島正則、    

                    黒田長政らは木曾川を渡り岐阜城を攻略した。東軍は大垣城西北の勝山に陣を取り、このため西軍は 

                   東軍の関西への路を防ぐため関ヶ原に向かった。関ヶ原の合戦では小早川秀秋の裏切りもあって東軍が

                   勝利をおさめる。「緒将が大垣城から関ヶ原に向った後は大垣城は三成の娘婿の福原長尭が率いる7千

                   5百の将兵であった。西軍の敗北になった後でも大垣城の戦いは続き、また秋月氏、相良氏らの東軍方に
  
                   寝返りも有る中、福原長尭は本丸に籠って奮戦を続けたが家康の降伏勧告により城兵の命は助ける事の

                                条件で大垣城を開城した。長尭は仏門に入り自刃した。                              

        慶長六年(1601)  石川康通が大垣城の城主となり、その後は松平氏、岡部氏を経て                        

        寛永十二年(1635) 戸田氏鉄(うじかね)が入封以後は戸田氏十一代の居城として明治維新を迎える。
     


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