この城跡に来たも全然気が付かずカメラが動画の常態になっており。帰宅後写真を見直すと地面撮影のオンパレードで…
残念ながら、写真は入り口の2枚しかなく悔やんでいます。でも いいの みのやんは城は見るだけ…歩くだけ!が本質だから、
まず今日も元気で城廻が出来たことが感謝!と言ってもこの城跡は総石垣の城跡で楽しみにしていたが、自分の愚かさの
せいで写真が無く涙…涙… この城は関ヶ原合戦後。毛利輝元は防長の二国に減封され、長門、萩に移った変わりに
慶長五年(1600) 福島正則が安芸、備後二ヶ国四十九万八千石の国主として、輝元の本城の広島城に入った。正則は毛利領
隣接するため、領国に六支城(三原、三次、神辺、東城、亀居、鞆)を構えたが、毛利領東端を領した吉川広家が周防岩国に、
築城開始した後に備える為、領土西端のこの地に、慶長八年(1603)から五年の歳月をかけて築城した。そして 甥の
福島伯耆を城代とした。慶長十六年(1611) 幕府の意向でで破却となった。
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