鞆城は、天正4年(1576)、織田信長に追放された将軍足利義昭を毛利氏が鞆に迎えた
際に築城し居館を設けたのが最初とされているが、
鞆が古くから海上交通の要衝であることや南方約300mにある大可島城が南北朝の争乱の
舞台になっていることから鞆城のある城山も古くから城郭として機能したことが考えられる。
義昭は、ここに6年間滞在し、鞆幕府といわれるようになるが、
同10年(1582)には蔀山居館(福山市津之郷)に移っている。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦功により、福島正則が芸備49万石の領主として広島城に
入城すると、鞆城には重臣大崎玄蕃を入れて、天守閣などを築き、城の修築を行った。
元和元年(1615)、一国一城令により天守閣などの主要建造物は壊されたが、大手門や蔵屋
敷等は残り、城の機能は保たれていた。
同5年(1619)、水野勝成が福山城主となると、鞆城に嫡男勝俊を居住させている。
その後、勝俊が2代目を継ぐと、重臣荻野重富を派遣し、鞆奉行としたが、
重富は城を閉じて、その北麓に新しく鞆奉行所を置いた。
日本城郭大系、現地説明板」より
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