建久年間(1190頃)、伊作平次郎良道が3男忠永に頴娃・揖宿・知覧・給黎・薩摩郡を与えた。
忠永は頴娃氏祖となり、その子四郎忠信が知覧氏祖となった。しかし、
南北朝期にこれらの平氏は没落し、
文和2年(1353)、島津忠宗の3男・佐多忠光(佐多氏祖)が足利尊氏から
恩賞として知覧領を与えられた。以後、佐多氏の居城となるが、
天正19年(1591)11代久慶の時、豊臣秀吉の怒りを買い、久慶は川辺宮村に領土を移された。
その後、城は火災で消失し、廃城となった。
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この城跡より武家屋敷通りを是非見て頂きたと思います。みのやんは感激!
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城年 |
平安時代末期 元号一覧 |
築城者 |
知覧忠信 |
歴代城主 |
知覧、佐多氏 |
形式 |
丘城 |
遺構 |
曲輪、石垣、空堀 |
現状 |
山林 |
ご案内 |
城跡の地図 |
駐車場 |
無料駐車場有り |
江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、
地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に「麓」と呼ばれる武家集落を作り、
鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治させた。
知覧もその外城の一つで、島津家の分家である佐多氏が地頭として治めていたが、
慶長15年(1610)佐多忠允が整備した。佐多氏は薩摩藩の中でも重要な役割を果たし、
その功績によって佐多氏16代・久達の時、知覧の私領地化と島津姓の使用が許された。