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別
称
玉
丸
城
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三重県度会郡玉城町田丸字城郭 |
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) 平山城 |
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この田丸城跡はみのやんにとって最高の感動を与えてくれました、上記の写真を見ていただいただけで、お城フアンの方には、
みのやんの感動も伝わると思いますが…三の丸辺りが現在は玉城中学校に変貌していますが、あとは言うことは無く
城跡探索の楽しさを感じさせてくれました。 山頂で役所の方に出会い此処からでも富士山が見えたとか…?…話を聞き
まずビックリ致しました。だから富士見門が有りその奥には富士見櫓が建っていたのかな〜?
デワ 略史
延元元年(1336) 後醍醐天皇を伊勢に迎えようと伊勢に下がった北畠新房が築城し南朝の拠点とした。一之瀬城を拠点
としていた熊野海賊を支配していた愛洲太郎左衛門を南勢の守護とし、弟:愛洲三郎左衛門宗実が田丸城守る。
延元二年(1338) 足利氏の将:畠山隆国が田丸を攻めたが宗実防戦し北朝を破った。延元四年後醍醐天皇が崩御する
康永元年(1342) 田丸城は落城した。以後南北の紛争は続いたが。統一後は北畠氏の所領となった。
元亀二年(1571) 田丸中務少輔直昌が城主となるが、
天正三年(1575) 北畠氏の養子となった織田信雄が大河内城を廃し田丸城に移した、直昌は岩出城に移った。
天正八年(1580) 田丸城は焼失したため、信雄は松ヶ島に城を築き移った。
慶長五年(1600) 関ヶ原の戦いで家康に味方した稲葉道通が田丸に本城を移した。子:紀通が継いだが、
摂津国中島へ転封となり、 元和五年(1619) 紀伊領(徳川頼宣公:家康の十子)となる。
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城山公園 |
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築城年 建武3(延元元、1336) |
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築城者 北畠親房 |
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久野家は代々紀州藩の家老職をつとめ、徳川期二百数十年間久野家が田丸を支配した。田丸城には城代家老が置かれ
一代の内、数度入部するしか過ぎなかった。この書院は久野城主が田丸御入城の節、御居間、御寝所の間として
使われたものである。 農家に移築されていた物を平成三年四月に三百十四年振りに元の田丸城に里帰りしました。
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