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城は見るだけ…歩くだけ!
(日本の城郭)
築城年代は明確ではないが、室町時代後期、砥石城と共に坂城の村上氏が小県方面
へ進出する拠点とした。天文19年(1550) 村上義清が武田晴信の軍を大敗させ
「砥石崩れ」称されたが、
翌年天文20年(1551) 真田幸隆の調略を用い独力で攻略した。真田幸隆の 子 昌幸
はこの城を居城としたが、天文11年(1583) 上田城が完成し移住した。
それ以後も詰城として重要視された。
登口の地図
長野県上田市上野 2008/8/7 訪城
米山城
城は見るだけ…歩くだけ!
(日本の城郭)
天正3年(1575) 長篠、設楽原の戦いで信綱、昌輝兄弟は信長の鉄砲隊の餌食になった。
幸隆の三男の昌幸が真田家の跡を継いだ。
天正10年(1582) 真田氏滅亡後に独立領主として歩みだした昌幸は織田。北条氏政、上杉景勝、徳川家康、
豊臣秀吉と主を替え、 しぶとく戦国乱世を生き残り、知謀、武略をもって、武名を天下に残した。
天正13年(1585) 昌幸は上田城完成に伴い移住した。真田本城は廃城となった。
城跡の地図
(別称) 松尾城 真田城 住蓮寺城
真田本城
本城
天文10年(1541) 武田信虎、諏訪頼重、村上義清の連合軍に敗れた、真田幸隆は
滋野一族の頭領であった海野棟網らと共に真田の地を追われ西上州の羽尾幸全や
箕輪城の長野業政を頼り放浪していた。その後真田幸隆は甲斐の武田晴信(信玄)
に仕官した。(父。武田信虎は晴信により駿河に追いやられて晴信が甲斐の国主と
なる)真田幸隆は信玄の信濃侵攻をたすけた。
天文20年(1552) 幸隆は武田軍主力で攻め切れなかった砥石城を調略により簡単に
城を乗とってしまい奪還し、念願の故地の砥石城を預けられた。 幸隆死後は信綱が跡を継だ。
2008/8/7 訪城 長野県上田市真田町長字真田