城は見るだけ…歩くだけ!
 (日本の城郭)



 

   備中高松びっちゅうたかまつじょう

                                                                                                   
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備中高松城 



    

状は本丸跡と二の丸跡の一部が城跡公園になっています園内には資料館もあり秀吉が 秀吉が中国大返した城跡                                                                                                                           
  
高松城水攻めの様子が詳しく説明されております

公園の東側の妙玄寺の境内の清水宗次の自刃の跡碑が建っています。

 それ以外は何もおまへんと言った感じやぁ〜整備された園内で家族つれが(二組が)お弁当を広げて

  楽しくやって要る姿は微笑ましい, 
  

                                                                              
                                                         
この城跡は観光には駄目かも… 城跡としてもイマイチかも…

ほなワイも弁当を買いに行き此処で食べるか…広大な園内で昼食を戴きました。美味 

では歴史に残る歴史を見てみよう! 
       
  永禄十二年(1569)    備中松山城主の三村氏が重臣の石川久弐に築城させたと…?

   天正三年(1575)        備中松山城主の三村元親が毛利に滅ばされると高松城の
 
 石川氏も追放され、毛利に属した清水宗治が城主となる。

 天正十年(1582)4月   羽柴秀吉が大軍を率いて備中南東部から侵入し

 毛利方の城を次々と落して、高松城を包囲したが進路は沼地で

 人馬が進みがたい要害の城であった.

 秀吉の軍師黒田官兵衛の策を取り入れ水攻めを決行。
    
高さ7m長さ3000mに渡り堤を12日間で完成させそこに足守川から水を流し込み城を孤立させた 

信長は秀吉の要求で中国攻めに出陣するため京都本能寺を宿所していた、

信長は明智光秀の謀反で自刃 
                
 本能寺変を知った秀吉は信長の死を秘したまま毛利方の軍師案固寺恵瓊(えいけ)を招き

 当日中に和議を成立すれば宗治の首級だけで兵の命は助けるの条件で成功させた。

 秀吉は高松城から山崎迄大急ぎで引き返した
                 
世に有名な秀吉の大返しである。清水氏亡き後は岡山城主宇喜田秀家の重臣花房正成が入城         

 慶長五年(1600)  関ヶ原合戦後は徳川の旗本となった花房氏の居城となったが徳川幕府体制が固まると

 花房氏は別地に陣屋を構え備中高松城は廃城となる。


                                                         

 
築城年 元亀年間(1570-73)   築城者          石川久武 歴代城主  石川、清水、花房     形式  平城 
 遺構  曲輪、捨石     現状の形態  高松城址公園   備考   城跡の地図      無料駐車場有り
           
 


                                  備中高松城