築城年・築城者については不明。高利平太夫(郡兵太夫)は、
摂津国高槻城主和田伊賀守に仕え、この国立浪速少年院辺りにあった
郡山城にいて、近郷七カ村を支配したと言われる。元亀2年(1571)8月、
茨木・伊丹両氏と池田氏との対立が茨木方の和田惟政と主君池田勝正を追出した
荒木村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、白井河原を挟んで
合戦をした。この時、和田惟政軍五百余騎、池田勢二千五百余騎と多勢に無勢で、
和田軍の部下の高利平太夫が一人で池田陣へ行き、時間稼ぎをしたが、
計略を見破られて戦闘は始められた。帰陣した平太夫は主君惟政に退却を
進言したが、聞き入れられず、縦横無尽に戦ったが戦死した。
(現地説明板より)
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