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大阪府豊中市庄本町一丁目 |
2007/11/25
訪城 |
応仁二年(1468)7月 西軍に属した、大内政弘の軍が椋橋城を攻撃し奪取したが、直ぐに東軍に奪回される。
文明二年(1470)7月 西軍が椋橋城を再度攻撃したが東軍の摂津守護代の薬師寺与一の家臣、
夜久主計允に阻まれ
天文三年(1534) 菅領細川晴元と三好利長との間で争いで、
利長は一向宗徒と共に城に籠り晴元の攻撃を敗退させやがて利長と和睦し、
利長は再び晴元に属することとなった事が納得いかない一向宗徒は椋橋城を攻撃し、
利長を信貴山城に追い払った。
天正六年(1578) 信長による荒木村重討伐の際に築かれた砦の一つ椋橋に配された事が残っている。
椋橋城跡は現在の椋橋神社付近とあいまいな状態です。
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