滋賀県の城(日野町の城)



 

日野城 

 
     滋賀県蒲生郡日野町西大路        地図(GoogleMap)  2010/10/10 訪城  
 

中野城 

 


 
蒲生氏の居城跡。中野城ともいいます。築城以前の蒲生氏の城は、
音羽丘陵上にありましたが、蒲生定秀(がもうさだひで)
により戦国時代に日野城が築かれました。築城にあたっては、
既存の日野市街を城下町とし、城のある西大路付近を武家屋敷地帯、
日野市街を町屋敷地帯としたといいます。

明智光秀の謀反によって殺された織田信長の妻子が、
身を寄せたのは日野城です。蒲生氏郷はこの城で生まれ、
若くして戦国武将の器量を備えていたので、
豊臣秀吉に抜擢されて伊勢12万石の領主となって
日野城を去りました。

徳川時代に入って天和6年(1620)市橋長政
が中野城址へ仁正寺藩1万8千石の陣屋を構え、
明治維新まで藩主となった。

  (近くに日野川ダムが有り行楽には最適です)


otoba

 

音羽城 

 
  滋賀県蒲生郡日野町大字音羽                 2010/10/10訪城
     

 


音羽城は応仁・文明年間(1467−86)に在地勢力蒲生貞秀により築かれたとされます。
蒲生氏は藤原秀郷を祖とし、平安期に近江国蒲生郡を開発して勢力を拡大した一族で、
源平の争乱期には蒲生俊賢が源頼朝に、南北朝期には蒲生秀朝が足利尊氏に味方しています。
同城は文献上では3度攻撃を受けていることが確認され、1度目は
明応2(1492)年に将軍足利義稙が六角高頼を攻撃したとき、
2度目は同5(1495)年に美濃守護代斉藤利国が
京極氏とともに六角高頼を攻撃したとき、
3度目は文亀2(1502)年に六角高頼の被官
伊庭貞隆が主に叛き、音羽城に逃げ込んだ高頼を攻撃したときの3度とされます。
室町期に蒲生氏は近江守護職六角氏に仕え、貞秀の代には嫡男秀行が足利将軍家に、
次男高郷が六角定頼に、三男秀順が細川氏に出仕しました。しかし秀行が早死し蒲生家
家督は嫡男秀紀が継ぎましたが、高郷はこれを不服として貞秀が死去すると秀紀への
攻撃を開始します。この蒲生氏の家督争い(蒲生氏の内訌)には六角定頼が
高郷方に与して音羽城攻撃に参加したため、大永3(1523)年に秀紀は降伏し
鎌掛城に退去することで収束しました。この内訌後に音羽城は高郷により
破却されたと伝えられています。その後、蒲生氏の居城は日野城へ移った。
日野町の城跡では見応えの有る音羽城です、先ず空堀の巾、高さはビックリ致しました.



sakura

佐久良城 

      滋賀県蒲生郡日野町佐久良                 2010/10/10 訪城
     

承暦年間(1077−81)頃 小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築き、
東近江に勢力を広げたのが始まりとされます。小倉氏は鎌倉初期以降、
同じく蒲生郡を支配した蒲生氏とともに有力な国人勢力に成長したと推測されますが、
詳細な事績は不明。佐久良庄は南北朝末期(1385年頃)まで
蒲生氏の庶流佐久良氏が支配していたとされますが、小倉氏がこの地に
入部した時期・いきさつともに不明で、室町中期頃までに小倉宗家が
佐久良庄に入部して佐久良城を築いたと推測されます。
小倉氏が史料上で動向が明確になるのは室町末期の
当主左近将監実澄の代からとされ、実澄は
「応仁の乱」(1467年)では京極持清に与して東軍に参陣したとされています。
永正2(1505)年、実澄死去後は実重・実光が家督を継ぎましたが、
弘治年間(1555−58年)頃 実光が嗣子なく死去したため日野城主
蒲生定秀の三男実隆を養子として迎え家督を継がせました。しかし実重の
代から六角氏の被官に組み込まれた小倉庶子家の小倉宗家からの自立が顕在化し、
永禄7(1564)年には延暦寺領山上郷の年貢を押領した
小倉西家(永源寺山上城主)の小倉右京大夫に対する追討令が小倉実隆に出されました。実隆はただちに出陣しますが
「和南山の戦」で討死し、奥津保郷は一時的に右京大夫の支配下に置かれました。同年、蒲生定秀は内訌に介入して
右京大夫の勢力を駆逐し、以後小倉氏は蒲生氏の統治下に置かれ、奥津保郷は蒲生氏の勢力下に置かれました。
実隆の子作左衛門行春は蒲生氏郷に仕え、天正16(1588)年の伊勢松ヶ島転封、同18(1590)年の会津転封に同道し、
南山鴫山城の城代に任じられました。佐久良城の消息は不明ですが、現在見られる遺構等から天正期まで使用され、
蒲生氏の松ヶ島転封にともない廃城になったと思われます。  この城跡も見応えは有ると思います。


toriihira

鳥居平城 

     滋賀県蒲生郡日野町鳥居平                  2010/10/10  訪城
     

 


室町時代に築かれた山城の遺構が東西数百メートルにわたって、
ほぼ原形のままで残されている。史跡全体は中世の築城様式特有の
土塁をめぐらす堅牢な城郭が十ヵ所以上もあり、峻険な堀切も数箇所に設けられるなど
広大な城であったことが偲ばれ、滋賀県でも屈指の山城であったことが確認できる。その昔、
奥津保と呼ばれた今の桜谷全体の領主であった小倉氏がこの城に深く関係したと考えられ、
この城の城主は寺倉氏であったと伝えられているが、歴史的な経過などは不明のままである。 
この城跡は東西の長さが500メトール一列に曲輪を配備し地形を上手く利用した
城跡で先ずよく歩きました。少し歩き過ぎかも…

  この山も熊か猪が出没するようで大きな罠が仕掛けて有り、要注意!