城は見るだけ…歩くだけ!(日本の城郭)


  
   
百済寺(ひゃくさいじじょう)  
                             


   



 明応七年(1498)自火により全焼し、

  文亀三年(
1503
)には戦乱による災厄に遭い、荘厳な古建築物の多くを焼失したが、

 再興し得る勢力を保っていた。

 天正元年(
1573
)六角義治が織田信長に抗し鯰江城に入るや、

  百済寺衆徒は寺内にその妻子を預かり、兵糧を送り援護した為、

 これを知った信長の兵火により一山悉く焼亡した。 

 
『信長公記』には、六角承禎父子の立て籠もる鯰江城を攻城の際に、

 信長が2,3日百済寺に滞在したが、

 滞在中に百済寺が鯰江城に支援をしていることを知り、焼き討ちにしたとある。


 

百済寺城 

 
 滋賀県東近江市百済寺町323         2008/05/02 訪門
 

天台宗


東三山 釈迦山
 

 



  重厚な石垣に覆われた『山城』の趣が漂う天台宗の寺院。
 
 近江の最古級寺院で、今から1400年の昔、推古14年(606年)に、

  聖徳太子が百済人のために押立山(771.8m)の中腹に百済国の

 「龍雲寺」を模して創建された。龍雲寺と百済寺のご本尊は、

  同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わる。

 開闢法要には、高句麗僧恵慈をはじめ百済僧道欽が仕え、

 暦を伝えた観勒も永く住したと言われている。

 その後、鎌倉時代には、「天台別院」と称され中枢部の300坊に加えて総計1000坊、

1300余人を擁する大寺院となりましたが、

室町・戦国時代には度重なる兵火、とくに天正元年4月11日に信長の焼討を受け、ルイス・フロイスは

 『地上の天国:Facusangi一千坊』の消失を惜しんでいます。江戸初期になって、

 井伊家、春日局、甲良豊後守等の寄進を得て 現在の本堂・仁王門・山門等が再建されました。
 
 往時の姿は、「石垣参道」、棚田のような「一千坊跡群」、「千年菩提樹」などから偲ぶことが出来ます。


城年  推古14年(606年)  築城者  聖徳太子  歴代城主    形式  城郭寺 
遺構  石垣  現状  寺  ご案内    城跡の地図 無料駐車場有り 

                                            


                                                     
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