城は見るだけ…歩くだけ! (日本の城郭) 


 



三雲城 

 
    湖南市吉永字城山               2011/03/27訪
     



 
三雲城は佐々木六角高頼が、
長享元年
(1487)
足利9代将軍義尚の近江親征の際、
三雲の小領主、三雲新左衛門典膳実乃に命じて
築城されました。すなわち佐々木六角氏による甲賀郡を
中心とした南部地域作戦の中核となった城です。
本城観音寺城(蒲生郡安土町)
から直接の道[観音寺道]を三雲までつけ、
小規模ながらその要害と地勢の上から巧妙なゲリラ戦を展開し、
幕府軍を撃退しました。三雲城を第二の観音寺城にしようとて、
すべて典膳の娘婿小山田行定指揮のもとに甲州流築城法によって
築かせたものといわれています。行定は武田二十四将の庶流で、
甲州流兵法の使い手、ことに忍者八門、八法利剣など、
甲斐忍法に精通した上忍の武将といいます。
武田信玄の上洛したいという野望の先駆として近江に入りましたが、
甲賀の横田の渡し(現甲西町横田橋)で捕まり、
横田対馬守の館にあずけられましたその後三雲典膳の女婿に迎えられました。
ですから三雲城には近江になかった武田の新しい技術が入っているのです。
この城は三雲氏が三世相次いで城将となりましたが、
天正二年
(1574)
に織田信長の武将佐久間信盛に降ったと伝えられます。

その後この城は築城六十年後、
天正十三年
(1585)
岸和田城主中村一氏が、
豊臣秀吉の命によりこれを解体し、横田川を船で曳航、
水口瀬古口に陸揚げし車谷より山頂に移し、
水口岡山城として再現しました。
その後城主は益田長盛、長束正家と代わり
慶長五年
(1600)関ヶ原の合戦で、正家は惨敗し落城しました。

城跡は先ず見応えはあると思います、整備もいきとどき、
でも月曜日は青少年自然道場が休み故
 車の駐車場が閉っております。城の訪問者用の駐車場が考量されていません…なぜ?
城跡には石垣、土塁、掘切、空堀等十分楽しむ事ができます。
八丈岩(見張岩)には四目結の六角家紋がを刻して有りました。
(位置の知らせ版有り)


 

八丈岩 

 
     
     

          近江の国は1300余り中世の城郭跡が有るそうですが?

                その中で甲賀市に2割近く密集しているそうです。
                                

   



        
築城年  長享元年 築者         佐々木六角氏(三雲氏  歴代城主  佐々木(三雲氏)    形式  平城
遺構  土塁,堀切,空堀,枡形,土橋,石垣,井戸 現状の形態  山林   備考  青少年自然道場 駐車しました   


                                           
                                    
 

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