承暦年間(1077−81)頃
小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築き、
東近江に勢力を広げたのが始まりとされます。
小倉氏は鎌倉初期以降、
同じく蒲生郡を支配した蒲生氏とともに
有力な国人勢力に成長したと推測されますが、
詳細な事績は不明。佐久良庄は南北朝末期(1385年頃)まで
蒲生氏の庶流佐久良氏が支配していたとされますが、
小倉氏がこの地に
入部した時期・いきさつともに不明で、室町中期頃までに小倉宗家が
佐久良庄に入部して佐久良城を築いたと推測されます。
小倉氏が史料上で動向が明確になるのは室町末期の
当主左近将監実澄の代からとされ、実澄は
「応仁の乱」(1467年)では京極持清に与して東軍に参陣したとされています。
永正2(1505)年、実澄死去後は実重・実光が家督を継ぎましたが、
弘治年間(1555−58年)頃 実光が嗣子なく死去したため日野城主
蒲生定秀の三男実隆を養子として迎え家督を継がせました。しかし実重の
代から六角氏の被官に組み込まれた小倉庶子家の小倉宗家からの自立が顕在化し、
永禄7(1564)年には延暦寺領山上郷の年貢を押領した
小倉西家(永源寺山上城主)の小倉右京大夫に対する追討令が小倉実隆に出されました。実隆はただちに出陣しますが
「和南山の戦」で討死し、奥津保郷は一時的に右京大夫の支配下に置かれました。同年、蒲生定秀は内訌に介入して
右京大夫の勢力を駆逐し、以後小倉氏は蒲生氏の統治下に置かれ、奥津保郷は蒲生氏の勢力下に置かれました。
実隆の子作左衛門行春は蒲生氏郷に仕え、
天正16(1588)年の伊勢松ヶ島転封、同18(1590)年の会津転封に同道し、
南山鴫山城の城代に任じられました。佐久良城の消息は不明ですが、現在見られる遺構等から天正期まで使用され、
蒲生氏の松ヶ島転封にともない廃城になったと思われます。 この城跡も見応えは有ると思います。
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