根城(ねじょう)は、南北朝時代の南朝方の武将・南部師行(なんぶもろゆき)が
建武元年(1334年)に築城し
以来領地替えにより使われなくなるまで約300年間八戸地方の中心でした。
本丸のほか中館、東善寺館など合わせて8つの郭からなる
平城で約18.5万平方メートルの城跡です
中世から近世にかけて郭全体の復元は全国でも初めての試みとされ、
11年間の発掘調査を元に平成6年オープン。
根城本丸は、城としての機能が最も充実した安土桃山時代の姿を忠実に復元。
主殿や工房・納屋・馬屋などの
建物が忠実に復元され当事の面影を現代に伝えています。
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鎌倉時代末期の1333(元弘3)年、北畠顕家は後醍醐天皇より陸奥守に任じられ、
義則親王(後の後村上天皇)を奉じて北条氏の影響が強かった陸奥国府に赴任。
この時甲斐国波木井の地頭であった南部師行もこれに従い奥州の地へ入り
師行は顕家より国司の代官(糠部奉行)に任じられ、
1334(建武元)年、南朝方の拠点の一つとして石懸村八森に「根城」を
築いたといわれている。ちなみに「根城」とは、「陸奥における
南朝方の根本になる城」となるようにと名付けられたと言われる
以来、この根城を本拠とした南部氏の系統は、
「根城南部氏」(または八戸氏)と呼ばれるようになり、
南朝側として北朝と戦ったが、次第に南朝側が劣勢となっていき、ついに南北朝が統一された。
根城南部氏はこの後今までの
本領であった甲斐国を離れ、糠部郡を本領とするようになる。
この頃から勢力が衰えるようになり、同族で北朝側についた三戸南部氏が有力となっていく。
1590(天正18)年、三戸南部氏の南部信直は、天下統一を成した豊臣秀吉から
、南部氏領全体の所領安堵の朱印状を得たこと
によって、信直は領内全体の支配を認められ、根城南部氏はその配下の立場となり、家臣化された。
その後根城は1592(天正20)年に豊臣秀吉の一国一城令によって城は取り壊されて機能を失ったが、
その後も根城南部氏は
根城に住み続けた。その後1627(寛永4)年、根城南部氏22代直秀は利直の命により伊達氏の押さえとして
遠野城(岩手県遠野市)に移封となり、根城は放棄された。
根城南部氏は三戸南部氏を宗家とする南部氏の有力な一族と言われてきたが、近年の研究によって、
根城南部氏が宗家の地位にいた時代があった可能性が強まっているようです。
築城年 |
建武元年(1334年) |
築城者 |
南部師行 |
歴代城主 |
南部氏 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
土塁、堀、井戸 |
再建造物 |
主殿・中馬屋・工房
鍛冶工房・板倉・納屋・東門 |
ご案内 |
城跡の地図 |
駐車場有り |
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