城は見るだけ…歩くだけ! (日本の城郭)

        三戸城 さんのへじょう


                                                                                                                  
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   青森県三戸町梅内字城ノ下                     2013/07/25  訪城



      南部氏はもともと甲斐源氏の一族で、加賀美遠光の三男光行を祖としています。

  光行は父遠光と共に源頼朝の側近として仕え、奥州合戦などで戦功を挙げ、

甲斐国南部郷(山梨県南部町)を拠点に、

  「南部」と名乗ります。その後、後醍醐天皇による「建武の新政」がはじまると、

実力をつけた南部氏は、陸奥守北畠顕家

            から糠部(ぬかのぶ)〔青森県南部地方〕の奉行を命じられ、当地方へ入部しました。

                  

 



   永禄年間(1558-70)、南部氏の祖・南部三郎光行から

24代目の南部晴政が築城した。

   光行は甲斐源氏の流れを汲む武将で、

文治5年(1189)源頼朝による奥州藤原氏討伐の軍功により、

   糠部郡を中心に5郡が与えられ、この地に土着した。 

鎌倉〜室町初期にかけては八戸根城を本拠とする

   八戸南部氏が勢力を誇っていたが、

室町中期の康正年間(1455-56)以後、

三戸南部氏の勢力が急速に強まり、

   南部晴政の父・安信の時、最盛期を迎えた。

晴政が居城していた聖寿寺館(本三戸城)が

   天文8年(1539)家臣の放火で焼失したため

   三戸城を築き居城とした。

天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、

南部氏26代城主・信直は千の兵を率いて出陣。

 信直は秀吉に南部7郡の所領を安堵された。また、

南部一族で九戸城主の九戸政実が

天正19年(1591)反乱を起こしたため

 秀吉と共に信直軍が九戸城を攻め落とし、

この功により10万石に加増され、更に九戸城を与えられた。

   しかし、三戸・九戸の城では所領支配に不便なため、

   信直は文禄2年(1593)盛岡に築城着工。

 寛永10年(1633)、南部氏28代南部重直の時、盛岡城が完成し、居城とした。

その後、三戸城には南部氏の城代が置かれ

   貞享年間(1684-87)からは代官が常駐して、三戸御古城と呼ばれるようになった。

                         
     

   


 


 



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