時代が古いだけ遺構は建物跡が主体で何所の柵も私は見極めがつきません。
胆沢城は延暦21年(802)に坂上田村麻呂が築いたとされています。
水沢一帯は蝦夷の一大拠点の一つで、俘囚の長であるアテルイやモレは
宝亀7年(776)、延暦13年(789)、延暦20年(801)と朝廷軍と戦っています。
延暦20年(801)の戦い後、アテルイとモレは捕縛され平安京で惨殺た
ことで周辺の俘囚の乱は一応平定されます。翌年から領土経営の為に胆沢城が築かれます。
胆沢城の政庁は一辺が90m程で、周囲を土塀で回し、
正殿や東西の脇殿が配置されていました。南門前にはさらに門を設け「政庁前門」とし、
周囲から「殿門」や「招殿門」などと書かれた漆紙や土器などが
発見されている事から「殿門」と呼ばれていたようです。
この門は外郭南門の間は延長130m、幅15mの直線の道で繋がれ朝廷の権威を示す象徴のような
役割があったと推定されています。大同8年(808)には鎮守府が多賀城(宮城県多賀城市)より移され、
文字通り、対蝦夷への最大の拠点となっていきます。
その後、「前九年合戦」、「後三年合戦」までは、政庁としての機能があったようですが、
二つの合戦で安倍氏、清原氏などの俘囚の長が淘汰された事もあり、
次第にその重要性が薄れていったようです。胆沢城は大正11年に国指定の史跡となっています。
築城年 |
平安時代 元号一覧 |
築城者 |
坂上田村麻呂 |
歴代城主 |
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形式 |
柵 |
遺構 |
築地跡、堀、溝、建物跡 |
現状 |
城山公園 |
ご案内 |
城跡の地図 |
駐車場 |
無料駐車場有り |
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