明応年間(1492-1501)、九戸光正が築城した。
天正8年(1580)三戸城主南部24代晴政に嫡男が無かった頃、
一族の田子信直を後継者としていた。しかし、嫡子・晴継が誕生したため信直を嫌い
世継ぎを撤回した。晴政死後、南部氏は信直と晴継の跡目争いが勃発。晴継は13才で謎の死を遂げ、信直が継いだ。
天正18年、秀吉が小田原征伐後、奥州仕置を開始し、小田原不参陣の諸氏を追放したため、
仕置軍が去った残党が蜂起し不穏な状況となった。
この機に乗じ九戸政実は信直に対し挙兵したが、政実は謀略に敗れ九戸城は落城し、
宮城県三迫で処刑された。その後、信直の領土は拡大し、秀吉の命で蒲生氏郷が城を改修した。
信直はこの城を南部の本拠地としたが、子・利直が盛岡城に本拠を移したため
寛永13年(1636)廃城となった。
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