一般的に古くから別名「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。
別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。
島津氏は、初代忠久が源頼朝に薩摩・大隅・日向3国の守護職に任じられて以後、
南九州を拠点に一大勢力を誇っていた。
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐に降伏した島津義久は、旧領を安堵された。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍に属した義久の弟・義弘は、
慶長7年家督を家久に譲った。家久は島津氏の本城として鶴丸城築城に着工し、
慶長9年完成した。77万石の大名が大城を築かなかったのは、
徳川幕府に恭順の意を表わすためだったといわれる。しかし、
島津藩は領内に郷を単位として百を越す外城を築き、
元和元年(1615)一国一城令によって外城の建物は形式的に壊したが、
要害としての外城は「麓」と称して明治まで温存した。
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私たちが訪城した時は上記の様に発掘調査中で城跡訪問としてはイマイチでした。
城年 |
慶長7(1602 元号一覧 |
築城者 |
島津家久 |
歴代城主 |
島津氏 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
曲輪、石垣、堀 |
現状 |
明館(県歴史資料センター) |
ご案内 |
城跡の地図 |
駐車場 |
無料駐車場有り |