築城年代は定かではない。現在残る遺構は肥後に入国した加藤清正によって築かれたもので、
加藤重次が城代であった。
南北朝時代に築かれた佐敷城は、現在の佐敷城から佐敷川を越えた東側にある佐敷東の城
とも考えられているが詳らかではない。
永禄5年(1562年)島津家臣梅北宮内左衛門が佐敷城を攻めたときの城主は佐敷重家であった。
天正9年(1581年)島津義久が水俣で相良義陽を敗ると、芦北郡は島津氏に割譲され、
島津家臣の宮原景種が地頭として佐敷城主となった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐によって島津氏は敗北すると、秀吉の家臣佐々成政、
継いで加藤清正と小西行長が肥後に入封し、佐敷は加藤清正に与えられた。
佐敷城を築いた加藤清正は、家臣加藤重次を城代として佐敷城に置いたが、
文禄元年(1592年)の文禄の役に城代の加藤重次が従軍して留守のとき、島津家臣梅北国兼が佐敷城を
占拠して挙兵(梅北一揆)した。しかし、一揆は間もなく加藤氏の家臣井上氏・安田氏・坂井氏などによって
鎮圧され、梅北国兼は討死した。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では、加藤清正は東軍、小西行長と島津氏は西軍と分かれた結果、
飛領地であった佐敷城は孤立し、島津氏によって攻められた。このとき西軍の敗報が伝わるまでの約30日
余り籠城して持ちこたえたという。
元和元年(1615年)一国一城令により廃城となり破却されたが、
寛永15年(1638年)島原の乱後に破却不十分として、再び徹底的な破却が行われた。