田中城は、廣瀬文書の暦応3年(1340)の項に出てくる鰐城にあたると考えられている。
築城時期については定かではないが、
落城する天正15年(1587)まで250年間以上は続いたと思われる和仁一族の居城で、
戦国時代末期には、肥後国衆の1人、和仁親実(わにちかざね)が居城としていた。
和仁氏は、もともと菊池氏の家臣で、天正年間のはじめには大友氏に属して龍造寺氏と戦ったり、
後には龍造寺氏や島津氏に属して行き抜いてきた。
豊臣秀吉が九州に出兵すると、和仁氏は辺春氏、大津山氏と共に早々と城を開き、
道の案内をしたので、本領は安堵された。
秀吉は、九州征伐後の国割りで、佐々成政に肥後一国を与えた。肥後は、
守護の菊池氏が滅んだ後、52人の国衆が割拠していたが、秀吉からそれぞれ本領を安堵された。
秀吉は成政に肥後の支配を任せるにあたり、
これら国衆を刺激しないため3年間は検地をしないように命じたにも関わらず、
成政は入国と同時に強引に検地を実施しようとした。
そのため、俄然、国衆は決起し、ここに「肥後国衆一揆」が起こった。
まず、天正15年(1587)に隈府城(菊池城)主の隈部親永(くまべちかなが)が起ちあがると、
和仁親実は、隈部親永に呼応し、姉婿の辺春親行(へばるちかゆき)と共に田中城に立て籠もった。
秀吉は、小早川秀包、安国寺恵瓊、立花宗茂、鍋島直茂、
筑紫広門などの九州勢1万の大軍で田中城を包囲した。
約40日間におよぶ籠城戦となったが、辺春親行の裏切りもあり、
天正15年(1587)12月5日に落城し、和仁・辺春氏一族はことごとく討ち果たされた。
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