城は見るだけ…歩くだけ!(日本の城郭)
菊池氏は平安時代中期から戦国時代まで約500年にわたって活躍した
九州きっての強豪武士団であった。常に戦いに終始したが、
特に蒙古襲来の文永・弘安の役では第一線に立って奮戦し、
日本の歴史上に菊池氏の名を残すことになる。
元弘3年(1333)には菊池氏十二代武時が後醍醐天皇の勅命を受けて
鎌倉幕府倒幕に決起したが、大友氏などの離反にあい悲壮な最期を遂げた。
しかし、菊池武時の子武重が肥後守護職に任ぜられ、
南北朝統一後も守護職を続け、
永正17年(1520)に菊池氏二十四代武包(たけかね)が大友氏によって
追放されるまで、菊池氏は隈府城を本城として肥後の国に君臨していた。
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宇土古城は鎌倉時代の末期に肥後の守護職であった菊池氏一族の宇土氏が築城したと伝えられている。
南北朝時代に入って、宇土氏は南朝の征西将軍である懐良(かねなが)
親王や良成(よしなり)親王を迎え入れ、
宇土城は九州における南朝の拠点の一つとなったが、
明徳元年(1390)今川勢の攻撃で落城。
明徳3年(1392)の南北朝統一後も菊池氏は肥後の守護職に引き続き任じられ、
室町時代には宇土忠豊の養子に菊池持朝の子である為光が宇土城主として迎えられるなど、
宇土地方は菊池氏の勢力下にあった。
しかし、応仁の乱後の文明16年(1484)頃から守護職をめぐって
菊池氏一族内に争いが絶えなかった。
永正2年(1505)菊池氏の混乱に乗じて八代を本拠としていた名和顕忠が宇土城を攻略、
以後、名和氏の居城となった。
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐に際して名和氏は薩摩の島津氏にくみしたため改易
翌天正16年(1588)には肥後南半国24万石は小西行長に与えられ、
行長は宇土城に入城した。しかし、小西行長は
天正17年(1589)に宇土氏や名和氏が拠点としていた宇土城の東の城山に新たな
近世城郭の築城に着手。完成と同時に新城(宇土城)に移ったため、
中世からの長い歴史を持つ宇土城は廃城となり、宇土古城と呼ばれるようになった。
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築城年 |
永承3年(1048) 元号一覧 |
築城者 |
菊池氏一族 |
歴代城主 |
菊池,宇土,名和 |
形式 |
平山城 |
遺構等 |
郭,石垣,虎口,空堀,礎石 ,国指定史跡 |
現状 |
歴史公園 |
ご案内 |
城跡の地図 |
駐車場 |
駐車場有り |
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