伊東氏5万1千石の城下として栄え、九州の小京都ともよばれる飫肥。
碁盤の目状に整備された町中の、石垣や武家屋敷も見所のひとつ
正平年間(1346-70)、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が築城した。
室町末期になると、工藤祐経の嫡子・祐時を祖とする
伊東氏が日向で勢力を拡大し、土持氏を追いやった。
長禄2年(1458)薩摩島津氏が伊東氏の南下に備え、
島津氏一族で志布志城主の新納忠続を飫肥城に入城させた。
以後、伊東氏と島津氏の飫肥城争奪戦が繰り広げられた。
元亀3年(1572)伊東義祐は木崎原の合戦で島津勢に大敗し、
天正5年(1577)島津氏に追われ、伊東氏は豊後の大友宗麟を頼って亡命した。しかし、
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後、伊東氏19代・
祐兵が5万1千石を与えられ飫肥城主に返り咲いた。
以後、祐兵を初代として伊東氏14代が続き明治を迎えた。
貞享元年(1684)5代伊東祐実の時、大地震で飫肥城は損壊したため、
大改修をを行い、元禄6年(1693)完成した。
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書院が復元されている。
城年 |
天正15(1587) 元号一覧 |
築城者 |
伊東祐兵 |
歴代城主 |
伊藤氏 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
復元櫓門、大手門、曲輪、石垣、堀、城壁 |
現状 |
公園、資料館 |
ご案内 |
城跡の地図 |
駐車場 |
無料駐車場有り |
