明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。
慶長19年(1614年)有馬直純のとき日向国延岡に五万三千石で転封となり、
元和2年(1616年)松倉重政が大和国五條より四万三千石で日野江に入封した。
松倉重政は新たに島原城を築いたため、原城の石垣や建物を島原城へ移し、
原城は元和の一国一城令によって廃城となった。
寛永14年(1637年)島原の乱が勃発し、一揆側の総大将として天草四郎が農民二万数千とともに籠城する。
天草四郎は小西行長の家臣益田甚兵衛好次の子と云われる。
これに対して幕府は板倉重昌を派遣し
九州の諸大名を率いて原城を包囲した。幕府の討伐軍は幾度となく原城に攻め寄せたが、
籠城していた一揆軍は城を固く守ってこれを寄せ付けなかった。
一揆を鎮圧出来ない幕府は老中松平信綱を派遣して事態の収拾を図ろうとしたが、
この知らせに焦った板倉重昌は原城に総攻撃を命じ、突撃して討死してしまった。
老中松平信綱は十数万もの軍勢で原城を包囲すると兵糧攻めを行い、
兵糧が尽きたころに総攻撃を仕掛け原城は落城、大将天草四郎時貞も討ち取られた。
この一揆の責任を問われ島原藩主松倉勝家は改易ののちに斬首刑となり、
大名として唯一切腹ではなく斬首という厳しい処分が科せられた。
築城年 |
明応5(1496) 元号一覧 |
築城者 |
有馬貴純 |
歴代城主 |
有馬氏 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
曲輪、石垣、空堀、枡形虎口
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現状 |
城跡公園 |
ご案内 |
城跡の地図 |
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駐車場有り |
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