永禄3年(1560)、松永久秀が築城した。久秀は足利幕府管領・細川氏の被官である三好氏の家臣だったが、
三好氏が台頭して畿内を支配しだすと、久秀も大和一円に勢力を誇った。永禄10年、久秀の大和侵攻によって大和北方から追われた筒井順慶が、
三好三人衆と共に多聞城を攻めたが、久秀は東大寺大仏殿を焼討ちするなどして撃退した。
永禄11年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると久秀は信長に属し、大和一国を安堵された。しかし
、
元亀2年(1571)
久秀は辰市の合戦で筒井順慶に大敗し、順慶が信長に帰順したため久秀の勢力は衰退した。
天正元年(1573)、久秀は信長に多聞城を明け渡し信貴山城に退いた。多聞城には信長臣下の
明智光秀、佐久間信盛らが城番となったが、天正4年、信長が安土城を築いたため、大和一国は筒井順慶に与えられた。
翌天正5年、信長の石山本願寺攻めの時、久秀は反旗を翻したため信長軍に攻められ、信貴山城は落城した。また、
多聞城は信長の命を受けた筒井順慶によって破却された。
|