家城(えばらじょう)
城は見るだけ…歩くだけ!(日本の城郭)
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公団向ヶ丘第一団地となっている小高い丘と西を流れる石津川を利用して築かれた城。 2013/02/26 訪城 |
16世紀中頃は三好長慶が「畿内八ヶ国」を制圧し和泉国もその支配下にありました。
永禄年間(1558〜1569)以降三好長慶の家臣松永久秀が力を得て、三好義継を擁する三好三人衆と対立するようになります。
家原城は松永方の和泉国の侍たち(和泉衆)がたてこもっていました。永禄9年(1566)2月松永方は城を出て
上之芝(現在の上野芝)で戦い、三好三人衆の軍勢に敗れ、岸和田城へ逃れました。永禄11年(1568)12月には松永方の寺町左
近将監・雀部治兵衛らがたてこもる家原城が、三好政康の兵約5000騎に攻められ落城します。家原城から逃れた人々は、踞尾、
家原に住み着いたといわれています。明治時代に描かれたと思われる右の絵図によれば、城域は南北約175m・東西245mで、
本丸を中心に南の曲輪(南北約24m・東西約16m)・西の曲輪(南北約26m・東西約20m)が付属しています。
城の周囲は堀(幅約6m)・土塁によって守られています。城の南・東・西部は、石津川など自然地形を防禦のためにたくみに利用して
いることがわかります。この絵図に描かれた家原城は戦国期の城郭の特徴を備えており、永禄11年の家原城合戦の時期の
形態をうかがうことができます。現在は公団住宅などが建ち並んでいますが、大池に面した部分にかっての家原城の地形の
面影を見い出すことができます。。 堺市教育委員会「家原城跡説明板」全文
大阪府堺市西区家原寺町1−1−34 家原大池公園
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