城は見るだけ…歩くだけ!(日本の城郭)
小雨の中の訪城です…中々綺麗に整備された公園と言うイメージで。城跡の雰囲気が私にはイマイチ伝わりが鈍いです。 文明10年(1478)、忍城主成田顕泰の父・成田自耕斎正が築城した。 戦国時代には何回も大改修され、戦国末期には大幅に拡張された。 本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部とその周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、 南岸に位置する新曲輪の3ブロックから構成され、 更に城の西側及び南側一帯には武家屋敷と町屋・寺社地などからなる城下町が形成され、 その周囲を巨大な土塁と堀が取り囲んでいた。 岩槻公園付近は新曲輪部分にあたり、1580年代に豊臣政権との軍事対決に備え、 その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防御力を 強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪の2つの曲輪が主郭部南方の防御を固めていた。 小田原北条氏滅亡後、徳川家の譜代家臣・ 高力清長が2万石で岩槻城に入り、江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、 有力譜代大名の居城となった。 江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光が入り、以後大岡氏が続いて明治を迎えた。 ( 現地説明板参照)
|