百済寺城(ひゃくさいじじょう)
明応七年(1498)自火により全焼し、
文亀三年(1503)には戦乱による災厄に遭い、荘厳な古建築物の多くを焼失したが、
再興し得る勢力を保っていた。
天正元年(1573)六角義治が織田信長に抗し鯰江城に入るや、
百済寺衆徒は寺内にその妻子を預かり、兵糧を送り援護した為、
これを知った信長の兵火により一山悉く焼亡した。
『信長公記』には、六角承禎父子の立て籠もる鯰江城を攻城の際に、
信長が2,3日百済寺に滞在したが、
滞在中に百済寺が鯰江城に支援をしていることを知り、焼き討ちにしたとある。
重厚な石垣に覆われた『山城』の趣が漂う天台宗の寺院。
近江の最古級寺院で、今から1400年の昔、推古14年(606年)に、
聖徳太子が百済人のために押立山(771.8m)の中腹に百済国の
「龍雲寺」を模して創建された。龍雲寺と百済寺のご本尊は、
同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わる。
開闢法要には、高句麗僧恵慈をはじめ百済僧道欽が仕え、
暦を伝えた観勒も永く住したと言われている。
その後、鎌倉時代には、「天台別院」と称され中枢部の300坊に加えて総計1000坊、
1300余人を擁する大寺院となりましたが、
室町・戦国時代には度重なる兵火、とくに天正元年4月11日に信長の焼討を受け、ルイス・フロイスは
『地上の天国:Facusangi一千坊』の消失を惜しんでいます。江戸初期になって、
井伊家、春日局、甲良豊後守等の寄進を得て 現在の本堂・仁王門・山門等が再建されました。
往時の姿は、「石垣参道」、棚田のような「一千坊跡群」、「千年菩提樹」などから偲ぶことが出来ます。
築城年 |
推古14年(606年) |
築城者 |
聖徳太子 |
歴代城主 |
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形式 |
城郭寺 |
遺構 |
石垣 |
現状 |
寺 |
ご案内 |
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城跡の地図 |
無料駐車場有り |

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