ま〜この城跡は中世城郭の教科書のように親切丁寧に標示(説明板)され、とうしろの みのやんでも解り易く感激致しました。また復元された
建築物で、今にも武者が飛び出して来るような… ここで子供たちが合戦遊びに最適な所とちゃいまっか。 今日は日曜日なのに
訪問者が我々だけとはやはり城跡めぐりは少し寂しい感じがいたします。
土塁などは崩れを防止の為に何かで(セメント?)固めてあります。良く整備された城跡で、ここもみのやんは大満足!
応永21年(1414)、 南北朝期から久頭郷を治めていた奥山定則が、水窪川と河内川が合流する標高420mの三角山先端部に後醍醐天皇の孫・
尹良親王を守護するための仮宮として築いたといわれる。
永正・大永年間(1504-28)、奥山氏は駿河の今川氏に属し、高根城を居城として北遠のほぼ全域を支配したが、今川氏没落に伴い、
今川・徳川・武田への帰属を巡り内部紛争が起こり滅亡した。その後、遠江侵攻を始めた武田氏が、
遠江・三河侵攻の拠点として城を改修した。しかし、武田氏滅亡と共に廃城となった。
|
|