城は見るだけ…歩くだけ!(日本の城郭)

                                                    

 
佐貫城 
 
 千葉県富津市佐貫字小和田谷  大手門石垣      2013/0/08/26  訪城       
 


別称

 

 

                本丸跡                                                二の丸跡

            多種多様の遺構が残っており、城跡に興味の有る方には大変喜ばれる城跡と思います、私さえホーォと感激していました。


   応永年間(1394-1428)真里谷城主・武田氏が築城したといわれるが、それ以前に長尾氏が築いたとする説もある。

   その後、武田(真里谷)信隆が北条氏に応じて挙兵するが、逆に足利義明・里見義尭に敗北し落城した。

   天文7年(1538)第一次国府台合戦で里見氏は敗れ、武田氏が一時勢力を盛り返すが、

   城は再び里見氏の手に落ち、以後里見氏の城として義尭の子・義弘が入り里見氏の本城とした。

   永禄7年(1564)第二次国府台合戦で里見氏は北条氏と戦い、再び大敗を喫した。北条氏は勢いに乗じ、

  上総三船山へ進出。里見氏はこれを撃つべく出陣し、三船山付近で戦い勝利した。

   天正18年(1590)里見氏は小田原攻めに遅参したことを豊臣秀吉に咎められ、安房一国残すのみで領地を没収され、

   佐貫城には関東に入った徳川家康の家臣・内藤家長が2万石で入った。家長は関ケ原の合戦で戦死し、子の政長が継ぐ。

   元和2年(1622)政長が陸奥に移ると、松平忠重が1万5千石で入り、

   寛永10年(1633)には松平勝隆が、更に元禄元年(1688)には柳沢吉保が入るが、

   元禄7年、川越に転封となり佐貫城は廃城となる。その後、

   宝永7年(1710)阿部正鎮が三河刈谷から封ぜられ佐貫城を再興し、明治を迎えた。
    

     
              空堀                           土塁                               石垣
  
築城年  応永年間(1394-1428年) 元号一覧 築城者  武田氏重  歴代城主  武田,里見,内藤,松平,柳沢,阿部  形式  平山城 
遺構  曲輪,石塁,土塁,空堀,水堀,堀切  現状  山林 ご案内   城跡の地図  駐車場  道路の余白に可 

                                          

                               

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