本丸跡 二の丸跡
多種多様の遺構が残っており、城跡に興味の有る方には大変喜ばれる城跡と思います、私さえホーォと感激していました。
応永年間(1394-1428)真里谷城主・武田氏が築城したといわれるが、それ以前に長尾氏が築いたとする説もある。
その後、武田(真里谷)信隆が北条氏に応じて挙兵するが、逆に足利義明・里見義尭に敗北し落城した。
天文7年(1538)第一次国府台合戦で里見氏は敗れ、武田氏が一時勢力を盛り返すが、
城は再び里見氏の手に落ち、以後里見氏の城として義尭の子・義弘が入り里見氏の本城とした。
永禄7年(1564)第二次国府台合戦で里見氏は北条氏と戦い、再び大敗を喫した。北条氏は勢いに乗じ、
上総三船山へ進出。里見氏はこれを撃つべく出陣し、三船山付近で戦い勝利した。
天正18年(1590)里見氏は小田原攻めに遅参したことを豊臣秀吉に咎められ、安房一国残すのみで領地を没収され、
佐貫城には関東に入った徳川家康の家臣・内藤家長が2万石で入った。家長は関ケ原の合戦で戦死し、子の政長が継ぐ。
元和2年(1622)政長が陸奥に移ると、松平忠重が1万5千石で入り、
寛永10年(1633)には松平勝隆が、更に元禄元年(1688)には柳沢吉保が入るが、
元禄7年、川越に転封となり佐貫城は廃城となる。その後、
宝永7年(1710)阿部正鎮が三河刈谷から封ぜられ佐貫城を再興し、明治を迎えた。
空堀 土塁 石垣
築城年 |
応永年間(1394-1428年) 元号一覧 |
築城者 |
武田氏重 |
歴代城主 |
武田,里見,内藤,松平,柳沢,阿部 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
曲輪,石塁,土塁,空堀,水堀,堀切 |
現状 |
山林 |
ご案内 |
城跡の地図 |
駐車場 |
道路の余白に可 |
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