城は見るだけ…歩くだけ! (日本の城郭)
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その歴史常識にはウラがある!
叶ツ春出版社より
近江 安土城のミステリー
その1
謎の出火で焼け落ちた幻の安土城?天正10年(1582)6月、完成からわずか3年後、威容を誇った一つの城が灰燼に帰した。
出火したのは6月14日から15日頃にかけてと推定されている。出火の原因は放火が一般的ですが、では誰が放火犯か?
「太閤記」「秀吉記事」といった豊臣家の史料では明知光秀を犯人扱いしている。秀満は(光秀の女婿)本能寺の変後は安土城に入り
守備についていた、光秀が敗戦したと聞くと14日に安土を出て坂本城へ移動、この際に火をつけた。?翌日15日に光満の妻子を
刺殺し坂本城に火をつけ自らも命を絶っている。死人にくちなし状況なのだ。ほかに誰が犯に説か?「日本西教史」やイエズス宣教師
ルイス、フロイスは、織田信雄(のぶかつ)信長の息子(二男)だと述べている。秀満が去った後、伊勢から鈴鹿を超え信雄が入れ替わ
り安土に入った。日本西教史は放火の理由を、亡き父が築いた城を敵に奪われたくない為放火した。信雄はあまり優秀な武将では
なかった。伊賀攻め大敗など失態が多い。信勝は敵に追い込まれている訳でもなく、光秀は山崎で敗退しているし、明知秀満は敗走
している、まして信雄が安土城を燃やしても何の得にもならない。信雄は安土城が炎上の時はまだ伊勢にいたと言う説もある。
信雄を犯人だと断定するのは無理が有りそう… 他の説は土着民が恩賞や略奪を目当て放火…や城下町の火災から延焼した…?
色々な説もあり、結局、出火の原因も犯人も謎のままである。
その2
安土城には蛇石と言われる巨石があった、信長(しちょう)公記にも書かれている巨大な石のことで、一万人以上の人で昼夜を問わず
三日間かけて天守閣に運んだ石が行方不明なのだ、城が全焼したと言ってもこれほど石なら残っていいはずである。しかし忽然と姿を
消したままなのだ。行方不明はまだ有る狩野永徳が信長の命により描いた安土城と城下町が写実されている。「安土山図屏風」である
信長がローマ教王に献上したが、ヴァチカン内でも眠っているか、ヨーロッパの何処かで現存しているか?いまだに判明はしていない。
安土城は謎の多く残されたお城である、だれかが謎解きして戴く事を待っています。
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