室町時代から戦国期、伊予の豪族河野家18将の首位であった平岡氏代々の居城跡である。
高さ5m程の土塁を周囲に築き、方形の平地で、
長さは約東西130m、南北120m、堀の幅は北側20m、西と東は14m、南は10mで、南側で外とつながっている。
四隅に櫓があったらしく西南の隅に石積みがある。矢竹が植えられているのは、
この期の城塁に共通する特色である。
建武2年(1335)、忽那氏が「会原城」で戦ったと言う記録が『忽那一族軍忠次第』にあり、
築城はそれ以前である。土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、
天正13年(1585)平岡通倚の時、秀吉の四国統一により、道後湯築城とともに落城した。
(現地説明板より)
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