城の築城の年代は不明ですが、主に天文後期から永禄期、
天正期(1500年代後半頃)にかけて機能していました。当地域は当時、
伊予(現愛媛県)と土佐(現高知県)の国境地帯にあって、
黒土郷河原渕領(くろつちごうかわらぶちりょう)と呼ばれていました。永禄期の城主としては、
河原渕教忠(かわらぶちのりただ)の名が残っていますが、
この城主は、土佐一条氏一門から養子として入っています。
長宗我部氏の四国統一への動き、また天正13年(1585年)の秀吉による四国平定を経て、
当地域を含む宇和郡は、戸田氏、藤堂氏、冨田氏へと支配が移っていきます。
特に藤堂高虎の時代には、河後森城の天守が板島城(現在の宇和島城)に移築されたという伝承が残っています。
慶長19年(1614年)、伊達秀宗(だてひでむね)が、宇和島藩を創立すると、
付家老の桑折(こおり)氏が居城したといわれ、その後詳細は不明ながら、
元和元年(1615年)の一国一城令の発布によって廃城になったと考えられます。
|