築城は永正の初期頃(1505)ですが、今現在の城跡は約90年後の
天正十八年の井伊直政時代の改修の遺構が多いと思われる。
でも、直政以前の時から土塁の高さ、堀の深さは等は有ったも
発掘調査では門の礎石などが見られます。
永正初期(1505)頃 長野尚業が築城した。その子:憲業が増築、更に三代目:業政が継いだ、
業政は上州侵攻を目指す武田信玄の軍勢に対して、西上州の武将をまとめて奮戦したが、
永禄九年(1566)跡を継いだ業盛の時落城した。箕輪城を落とした信玄は、内藤昌豊、その子:
政月を城代とし、天正十年(1582)武田氏滅亡まで西上州を支配した。滅亡後は信長の家臣:
滝川一益を厩橋城に入れ箕輪城をその配下に入れた。しかし同年本能寺の変により信長が没し、
滝川一益は伊勢に撤退し、替わって北条氏邦が城主となる。
天正十八年(1590)徳川家康が関東入国と共に。重臣の井伊直政が十二万石で箕輪城主となる。
武田、北条も改修を行ったが、井伊直政は大改修を行い、城下町も整備した。しかし
慶長三年(1598)直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城となる。
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