城は見るだけ…歩くだけ!(日本の城郭)


復元天守閣 

人吉城 

熊本城本丸御殿 
      熊本県人吉市麓町           2014/07/26   訪城
熊本城石垣群 

別称

相良城

涅槃城

               
                                 
               

   



熊本城堀 
日本百名城の一つである人吉城跡は

鎌倉時代から幕末までのおよそ700年間、

相良家の中心だった中世城趾で、球磨川と胸川を

堀がわりにした特異の築城と、江戸時代末期に施された

石垣のはね出し武者返しが、

我が国の築城史上でも珍しい遺構です
               



     







熊登城宇土櫓

別称

繊月城 

櫓中 
   角櫓跡(すみやぐらあと)復元    
櫓中 

 

櫓中 
                大手門がある西側には   多聞櫓・角櫓・長塀が復元されております。


本丸御殿  本丸御殿  本丸御殿 

 

  
 人吉城は、もともと平氏の代官がいた城であったが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉庄の

 地頭として着任した相良長頼(さがら ながより)が、平頼盛の代官矢瀬氏を滅ぼして

 建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられている。その修築の時、三日月の文様の

 ある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城とも言われている。実際には応仁の乱後の

 文明2年(1470)頃、第12代当主、相良為続(ためつぐ)によって築城されたようである。

 臣秀吉の天下統一後、天正17年(1589)に第20代相良長毎(ながつね)は豊後から石工を招き

 人吉城の整備を始め、慶長6年(1601)には御本丸・二の丸・堀・櫓御門(中御門と推定)まで完成。

 慶長12年(1607)から川沿いの石垣を築き始め、寛永16年(1639)に幕府に気がねして石垣工事は

 中止されたが、このときには近世人吉城はほとんど完成していたと考えられる。尚、相良氏は、

 長頼を初代にして、35代におよぶ城主の家系である。

 人吉城は、2度の大火にあっており、文久2年(1862)の「寅助火事」では、城内の建物がほとんど焼失。

 御館北側に位置する「武者返し」と呼ばれている石垣は、「はね出し」という工法で、

 防火のために造られた。この工法は、函館の五稜郭や江戸湾台場など日本では数例見られるヨーロッパ

 式の石垣。明治4年(1871)の廃藩置県によって城内の建物は立木とともに払い下げられ、

 石垣だけが残る。
 

                           
    
築城年  建久9年(1198) 元号一覧 築城者  相良氏  歴代城主  相良氏  形式  平山城 
遺構  復元櫓、、石垣 礎石 堀 現状  城跡公園  ご案内   城跡の地図  駐車場  駐車場有り 
                            

 

                                                                                                       
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