勝連城は十二〜十三世紀に築城されたとものと考えられています(発掘調査の出土品から) 初代城主:英祖王系:大成王の五男
その後、勝連の按司は四代続き、六代目の世継ぎができない為、養子縁組で伊波グスクから六男が迎えられ
続く七代八代目は交代の理由は解りませんが浜川按司になっています。そして九代目は茂知附按司となります、しかしこの按司は
圧政をひき酒におぼれたため、信頼の厚い阿麻和利(あまわり)が十代目の城主となり、勝連は栄える事になっとあります。
若くして勝連の按司となった阿麻和利は、人々からしたがわれ海外貿易で力をつけました。時の琉球国王尚泰久は阿麻和利に
脅威を持ち、自分の娘:百十踏揚を嫁がせます。時は十五世紀(1458)琉球国王の重臣が居城していた中城を滅ぼしさらに
王権奪取をめざし首里城を攻めたが、大負し阿麻和利は滅び首里城を中心とした中山の王権は一段と安定した。
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