故墟孝(史書)に「山田郷上見村領にて五ヶ山西北に在り。
南北四十間、東西十七間、西・北・東三方は深谷、南は山に接す。
今は畑となり遺るものなし。村人曰く天正中篠村太左エ門拠ると」。
また宝暦14年の「古城跡等調書」にも「越之下草」にもこれと同意のことが
記されている。現在、城砦の址らしき地形と古井戸が遺っている
尚、古文書には興国2年6月14日(1340)南朝綸旨写しとして次のように書かれている。
越中国上津見保為勲功賞可被知行者也 天気如此悉之以状
石中 将判 滝口蔵人館 上見城の築城年代などは不明である。
天正年間(1573-92)に笹村太左衛門が居城したとのみ伝えられる
(現地説明板より)
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