築城年・築城者ははっきりしないが、伊達文書に
「永正11年(1514)最上と戦って長谷堂を陥す」とあり、
この頃には城塞が構えられていたと考えられる。
長谷堂城は最上氏の山形城の前衛基地で、
山形盆地と米沢盆地を結ぶ
小白府街道や狐越街道の要所にあり、
上杉に対する重要な拠点であった。
慶長5年(1600)9月13日、畑谷城を攻め落とした
上杉景勝の重臣・直江山城守兼続は、
2万の大軍を率いて翌14日菅沢山に本陣を置き、
長谷堂城を攻めた。
守る志村伊豆守光安は1000余の兵力で激しい
攻防戦を繰り広げたが、
兼続は長谷堂城を落せないまま9月末に
関ヶ原敗報を受け撤退した。
この功績により志村氏は
3万石の酒田東禅寺城主となり、
代わって坂紀伊守が長谷堂城主となったが、
元和8年(1622)最上氏改易により廃城となった。
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