今は広い原っぱが残っているだけと言う感じです、
みのやんとしては見どころは余り無いわ〜と思ったが 遺構は少し残っていました。
永正五年(1508) 今川氏の武将管沼元成が築城した。
永禄三年(1560) 今川義元が桶狭間の戦いで没すると、
四代城主管沼正貞は今川を見切り武田氏に属した。
天正元年(1573) 家康は管沼氏を破り長篠城に城代を置き武田軍に備えて修築をし、
天正三年(1575) 奥平信昌を城主とした、この年武田勝頼が大軍を率いて
軍1万五千の大軍の猛攻を防いでいた。
長篠城を攻撃した。奥平軍はわずか五百人の兵で武田軍1万五千の大軍の猛攻を防いでいた。
織田、徳川連合軍は長篠城落城寸前に駆けつけ設楽原で武田の騎馬戦法を、
連合軍は新兵器の鉄砲を使用し、
三段構えの鉄砲隊で打ち破り連合軍が勝利した。長篠合戦後に廃城となる。
武田軍の攻撃を受け、時の城主奥平信昌は援軍の要請を信長に依頼の為夜陰に紛れて
鳥居強右衛門(すねえもん)を使者として出し、信長の救援を承諾得て長篠城の
兵に知らせに戻るさいに捕らわれ、武田軍は信長の救援は無いので
直ぐに開城する様に、と呼び掛けを強要したが鳥居氏は援軍は直ぐに来る、
それまで城を守りぬけと大声で叫び伝えた為その場で磔にされ殺された。
☆ 昨日の豊田市城廻にかけ今日(2012年1月2日)は新城にやって来ました。
目的は以前にも(五年前)来ました設楽原合戦跡をユックリと
探索をしょうと思い来ましたが…探索地図も持たず来た故(資料館は勿論休日)
今回は諦め長篠城を再訪問しました。
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