古代東北地方は「辺鄙の地」と位置づけられていたが、
律令国家成立頃から支配下に組み込むことに積極的となり、
東北地方進出の拠点となったのが城柵である。
城柵は行政的・軍事的拠点としての役割を果たし、
多賀城、胆沢城、紫波城、徳丹城、磐船柵、城輪柵、秋田城、雄勝城等がある。
払田柵は坂上田村麻呂らによる征夷事業として平安時代初期に築かれ、
政治・軍事・生産・生活・
宗教等の拠点となった思われる。しかし、
大規模な城柵にも関わらず、文献に記載が見当たらないため
詳細不明で、河辺府説・雄勝城説・
山本郡衙説などがあるが確証はない。
真山・長森の二丘陵を中心とした一体に構築され、
外郭線は角材列、内郭線は角材列・築地土塀・
石塁で構築されている。長森の中央には政庁があり、
周囲は板塀で囲まれ門が設けられている
当時どのような名称で呼ばれていたのか明らかではなく謎の遺跡でもあります。
払田柵跡は1974年より通年学術調査を実施しており、
現時点までおおよそ次のことが判明しました。
政庁は中心施設であるが儀礼的な場であり、
実務的な場(建物)は政庁からやや離れた長森丘陵東側に置かれたと思われます。
対する西側丘陵域は主に鉄・銅などの金属の生産や加工の場として
利用され、工人集団の作業場兼居住域であったことが判明しつつあります。
外柵で囲まれた広大な 低地は当初、耕地が広がり馬が放たれ、
兵士・農民が居住する空間と推測していました。
ところが実際には複数の川が流れ、河川敷・
湿地が広がる所であり、居住には適さない場の多いことが
明らかになってきました。しかしこの区域は水や火を用いて行う祭祀には好都合の場であり、
近年祭祀関連の遺構・遺物が多く発見されました。
このように払田柵は軍事的、政治的な要素を兼ね備えた国の役所であるとともに、
柵内では鉄の生産や鍛冶、さらには祭祀もとり行われていたと
思われ全体像が徐々に明らかになってきています。払田柵跡調査事務所
築城年 |
延暦年間(782ー806年)頃 元号一覧 |
築城者 |
朝廷 |
歴代城主 |
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形式 |
柵 |
遺構 |
復元門、復元建物、政庁跡、井戸 |
現状 |
払田柵歴史公園 |
ご案内 |
城跡の地図 |
駐車場 |
無料駐車場有り |
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