城は見るだけ…歩くだけ!(日本の城郭)
岐阜城の隅櫓は(左写真)は 昭和50年に建てられたもです。 内部は岐阜城関連の資料館と なっています。 (岐阜城も関ヶ原戦いの際には 数年前に訪れた時は左の
日本100名城認定証 城内はお帰り、居館跡へどうぞう〜
城は見るだけ歩くだけのみのやんとしては、ここは登山路を歩き天守を目指すか・・・山麓から一般的にロープウェイで山頂まで行きます、 登山中は原生林を眺めながら天守を目指すこれは?…と思うもの発見できず、ひたすら歩き続け(リハビリやぁ〜)山頂付近で 冠木門に出会うここまで来れば天守まで10〜15分かなと思いながら歩く歩く… お〜天守が見えた!でも 帰りはロープウェイに乗ろう心に決めたみのやんです。天守前の岩郡はりっぱやなぁ〜 岐阜城の歩み。 天文八年(1539) 油売りの出と言われている長井新九郎(後の斉藤道三)が政略をめぐらせ 守護大名の土岐頼芸の家臣となり、 自らは斉藤と名乗り土岐氏を追放して美濃一国を手に納め堅固な岐阜城を築きあげた。 永禄十年(1567) 道三の孫 斉藤龍興の時信長は稲葉城の攻略に成功し小牧山城から移って岐阜城と改めて 天下統一の拠点とする。 天正四年(1576) 信長は新たな城を安土に築き、岐阜城を嫡男の信忠が城主となる。 天正十年(1582) 本能寺の変で信長、信忠父子は明智光秀に破れたため、信長の三男で神戸信孝が城主となる。 天正十一年(1583) 信孝は織田家の跡目相続を狙うが失敗いに終わり自刃。その後は池田氏、羽柴秀勝、織田秀信が入封 慶長五年(1600) 関ヶ原の合戦では織田秀信は石田三成に味方し岐阜城を守ったが東軍の福島正則の大軍に攻められ 降伏、その後織田秀信は高野山に籠るが慶長十年(1605)病死した。 慶長六年(1601) 城主のない岐阜城は、この年徳川家康の命令にて廃城となる。
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