岩村城跡は大手門跡あたりから壮大な石垣が見えてきます。この辺で日本三大山城の一つで有ると言う事が実感できるわ、本丸跡の石垣は見事、天晴れと言うよりたとえ様 が無いわ〜広々した本丸跡に立と、本能寺の変の前に信長が宿営した同じ場所に… みのやんが立って居ると思うと感無量である。信長はこの時点では明知光秀が謀反を 起こすなど、頭の片隅にも無かっただろう・・・戦国時代の岩村城は信長の後ろ盾があったにも関わらず簡単に武田氏の支配下に落ちたのは、遠山影任夫人(信長の叔母)が好色ゆえ美人だった上に秋山信友と通じていたからと言うわれてる。信長は岩村城を攻略にあたり、兵は皆殺し信友、妻5人共逆磔の刑に処した。信長は両人を恨みを世に見せしめにしたと言われている。
岩村城の歩み
天治元年(1185) 源頼朝の拳兵の軍功により加藤影廉(かげかど)に岩村遠山荘を与えられ岩村城を築城した。
景康の子、も遠山に住み姓も遠山と改めて400年年間の長き渡りと遠山氏の居城となったが。
戦国末期には岩村の遠山家は断絶
その後岩村城は
永禄元年(1558) この頃から武田信玄が美濃に侵出し武田の重臣の秋山信友が岩村城を
攻撃した。岩村遠山家の最後
の城主である遠山影任(かげとう)は信長に援軍を求め信長はそれに応じて明智光秀を送り秋山信友 を敗走させた
元亀二年(1571) 遠山影任が病死すると信長は五男御坊丸を遠山の養子としたがわずか8歳のため影任の未亡人
(信長の叔母)が実質上の城主となった。一方影任の死を知った武田信玄は再び秋山信友に岩村城の攻
?を命じた 岩村城はついに武田に落ち武田の拠点となったが
天正三年(1575) 長篠の合戦で武田方を撃破した信長は嫡男信忠に命じ岩村城を攻略させた。
その後は河尻秀隆が城主となる
天正十年(1582) 河尻氏が甲斐移封後、森長可、森忠政と替わり
慶長五年(1600) 森忠政は信濃松代へ移封。後松平氏丹羽氏など経て
元禄十五年(1702) 信濃小諸から松平乗紀(のりただ)が入封以後 松平7代の居城となり明治維新を迎える。
この城跡もみのやんのお気に入りです。
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平成27年11月23日
岩村城に(三度目)訪れました。この城跡も私のお気に入りの一城故、
何度訪れても新鮮な気分で城跡散歩が楽しめました。
又 岩村町の町並みも少し探索させて戴き楽しみが増しました。
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