城は見るだけ…歩くだけ! (日本の城郭)
                  
  会津若松城 (あいずわかまつじょう) 




会津若松城  水堀 
 福島県会津若松市追手町 会津若松城  別称 鶴ヶ城 2009/07/18  訪城
会津若松城  武者走り 




今回の城廻の旅はこの会津若松城が第一の目標でした。

みのやんは一人興奮状態でハシャギ心をおさえ先ず城内へ 

  このお城はなんと言っても白虎隊士二十名が飯盛山で煙に巻かれている城を見て落城したと勘違いをし

  自刃する悲劇が起こったのは有名な話で知られております。 

 復元天守、城門等見どころはたくさん有ります。みのやんもユックリと見学致しました。 






鶴ヶ城



   
   


至徳元年(1384)   会津に下向した三浦一族:芦名氏七代直盛が築城した。
 
 天正十七年(1589)  芦名氏二十代義広の時。伊達正宗が攻略し入る。
 
 天正十八年(1590)  小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が政宗から会津城を没収し、

               蒲生氏郷に会津九十二万石与えた。
 
 文禄元年(1592)   氏郷は城を改修し、それまで黒川と呼ばれていたこの地を若松と改め、

                                城の名前も鶴ヶ城と改めた。その後は子の 

               秀行が継いだが
 
 慶長三年(1598)   重臣の争いの為宇都宮十八万石に移封された。後、

                               越後春日山城から上杉景勝が

               若松城主となるが、                
 
 慶長五年(1600)   関ヶ原合戦で西軍に属したため米沢に移封となった。
 
 慶長六年(1601)   再び蒲生秀行が城主となったが、秀行の子に嫡子が無く
 
 寛永四年(1627)   蒲生秀行の次男:蒲生忠知が伊予松山城の移り、

              替わって伊予松山から加藤氏が入る。
 
 寛永20年(1643)   加藤明成代に改易となり、徳川二代将軍秀忠の庶子:保科正之が

              出羽最上より三十二万石で入封した。

              三代正容の時に松平の姓に改名した。

              以後保科松平九代続き明治維新を迎える。
 


移築門 



築城年 

至徳元(1384) 

築城者 

芦名直盛 

歴代

芦名、伊達、
蒲生、上杉、蒲生、
加藤、保科、松平 
 

形式 

平山城 

遺構 

復元天守、曲輪、土塁、空堀、石垣、井戸

現状 

鶴ヶ城公園 

ご案内 

城跡の地図 

有料駐車場有り  

会津若松城 

  

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