城は見るだけ…歩くだけ! (日本の城郭)



                         



侍所(復元館)
 島根県の第一歩は日本百名城の一つ月山富田城から、

    車で城跡内まで行け楽々でした、
             
 歩き出し最初に目に飛込んできたのは尼子氏では無く

   家臣の山中鹿介幸盛の銅像でした。 

  富田城の奪回、尼子再興願い活躍した武将

 花の壇へと…此処だったかな〜侍所が二棟復元されていました。

    大手門上がった所にビックリ! 山中御殿の広大な平地(3000平方メートル)その昔は

    山中御殿と言われた建て物があったところ 上下二段わかれている。月山富田城の重要な心臓部である。

                                                      島根県安来市広瀬富田    2008/7/17  訪城 


                                                                   月山富田城


山中御殿 月山富田城跡  山中御殿(御殿平) 

月山富田城三の丸跡
 御殿跡には石垣も堪能できます、

    そこから七曲りへ、

  やっぱし 暑さ
          、 
 かなりきつく少しキツイワ〜 と

    文句をたれもて天守に

 

   たどり着く。 本丸跡に建つ山名氏記念碑の所からの眺望は格別と史跡案内に記載されていましたよ…
  
                      山頂かの眺望はどこから見てもみのやんは最高です〜 
 

本丸跡(山中鹿介幸盛記念碑)略史
 
明徳2年(1391)   京極高詮の守護代として一族の尼子持久が

 富田城主となった。その後、清定     経久、と三代続くが、京極氏と

  対立し、経久は富田城から追放された。        

 文明18年(1486)  経久は富田城を奪還し

  経久、晴久、義久の三代で出雲、隠岐、石見を中心に経久は
                
   十一ヶ国に勢力を拡大した。
                            
 永禄9年(1556)  毛利元就に城を包囲された尼子義毛利に降伏し、

   尼子氏は滅亡した。       その後は毛利氏が領したが  
                             
  慶長5年(1600)   関ヶ原合戦後は毛利氏は長門、防府の二ヶ国に減封された。 

本丸跡から眺望 

 利氏に替わって、関ヶ原合戦で

 戦功のあった堀尾義晴、忠氏 
                
 慶長16年(161)  

堀尾氏は松江城を築いて移ったため

  月山富田城は廃城となる。




                                   城跡の地


                                         日本100名城(中国山陰地区)へ

        ©minoyan  | ホー自己紹  |   100名 |   ブログ  PART2(日本の史跡) |