築城年は不明だが、長宗我部氏が代々本城とした。
永正5年(1508)18代兼序の時、本山・吉良・大平・吉良連合軍に攻められ岡豊城は落城し、
兼序も自刃した。その際、嫡子国親は幡多中村の一条房家を頼って落ち延びた。
永正15年、一条房家の助力で本領を回復した長宗我部国親は勢力を拡大し、
天文18年(1547)山田城主山田元義を、永禄3年(1560)朝倉城の本山茂辰も攻め滅ぼしたが、
同年没した。国親を嗣いだ元親は、永禄12年には安芸城
主安芸国虎を、
天正2年(1574)中村城主一条兼定を滅ぼし土佐を制圧し、
天正12年伊予河野氏を降して四国を平定した。
天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に敗れた元親は、土佐一国を安堵され、
天正16年に大高坂城(現高知城
)へ移ったが、治水に難があったため、
天正19年に浦戸城を築いて居城とした。 |